ウズベキスタンの概要

1.概要

 ウズベキスタンは、ユーラシア大陸の内陸部、北はカザフスタン、南はタジキスタン、アフガニスタン、東をキルギスタン、西をトルクメニスタンに囲まれて存在する。その面積は447.4千km2で日本の国土の約1.2倍、旧ソ連邦の中では第4位の大きさである。国土のおよそ3/5は、ステップや砂漠で、国の東部、南部には天山、ギザル、アライなどの山脈がつらなり、山々の間にはフェルガナなどの盆地が存在する。また、内水面としてアラル海(塩湖)に面している。

 アラル海沿岸から中央部にかけて、乾燥した砂漠気候とステップ気候になっている。国土の60%が乾燥地または砂漠である。年間降雨量は平野部で150mm、山麓部で450mm程度である。降雨は10月から4月の冬の期間に集中しているため、山沿い地方を除いて作物の栽培には灌漑が必要になる。平均気温は1月がマイナス6℃〜2℃、7月が26〜32℃で、気温の日格差も大きい。

 ウズベキスタンの総人口は26.5百万(2004年)で、中央アジアの旧ソ連諸国では最大、旧ソ連全体でもロシア連邦、ウクライナに次いで3番目である。人口増加率は2.3%と開発途上国平均1.9%よりも高く、急激な人口増加が問題となっている。総人口の64%が農村で生活しており、この割合は開発途上国平均の57%を上回っている。また、総人口の25%が農業に係わっており、ウズベキスタンの基幹産業となっている。

 平均人口密度は5つの中央アジア共和国の最も高い約52人/km2である。人口密度が最も高いのはフェルガナ渓谷にあるAndijand州の464人/km²以上で、最も低いのはKarakalpakstanの8人/Km2である。年人口増加率は70年代および80年代の2.8〜3.2%で安定していたが、1990年から1994年までの間は2.2%に下った。この低下は独立後の困難な経済状態が原因で、他の国(ロシア連邦、ドイツ、イスラエル共和国、等)に人口の一部分が移住したことによる。

 全人口の71%を占めるウズベク人は、チュルク語派のウズベク語(アルタイ諸語)を話し、イスラム教を信仰する。少数民族ではロシア人が最も多く8.3%を占めるが、近年はロシア連邦などへの移住により減少している。ロシア人についで多いのがタジク人(4.7%)、カザフ人(4.1%)で、さらにタタール人、カラカルパク人、朝鮮人、キルギス人、ウクライナ人、トルクメン人、トルコ人と続く。

 住民の大半は農村に、約36%が都市部に居住する。ほとんどのロシア人はタシケントをはじめとする工業都市に住む。タジク人はブハラやサマルカンドなどの古都に多い。カラカルパク人はおもにカラカルパクスタン自治共和国に住んでいる。首都のタシケントは人口212万人(1991年推計)で、中央アジア最大の都市であり、旧ソ連全体でもモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフについで4番目に多い。そのほかの主要な都市はサマルカンド(37万1000人(1991年推計))、ナマンガン(31万9200人(1991年推計))、アンディジャン(29万7000人(1990年推計))、ブハラ(22万8000人(1990年推計))で、東部に集中している。


2.歴史

 ウズベキスタンの地には何世紀も前からウズベク人が住んでいたが、国家として統一されたのは1920年代のことである。
 古代にはペルシャのソグディアナ州が置かれていたが、前4世紀にマケドニアのアレクサンドロス大王に、8世紀にはアラブ人に征服された。13世紀にチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国に併合され、14世紀にはティムールの支配下に入った。16世紀にはウズベク人のブハラ・ハーン国とヒバ・ハーン国があらわれ、18世紀にホーカンド・ハーン国が成立する。1865〜73年にはロシアの支配がこの地域にもおよび、ヒバとブハラはロシアの属国となった。

 帝政ロシアが支配する同地域での綿花栽培が拡大されるにつれて、ウズベク人をはじめ地域の諸民族とロシアとの間で数度にわたって大規模な紛争がおこった。ロシアが従来の作物に替えて綿花栽培を推進したため、住民は食糧が減産となったことに激しく抵抗したのである。いくつかの大規模な灌漑施設の建設計画が、劣悪な労働条件と低賃金に抗議する地元の労働者の反乱のために中断されている。1916年、各地に広まっていた帝政ロシアの支配に対する反乱にウズベク人や中央アジアの諸民族が加わり、数千人が死亡した。
 ロシア革命後、ソビエト権力は、バスマチとよばれるウズベク地域の民族主義ゲリラの頑強な抵抗にあった。戦いの末、ロシアの属領ヒバとブハラは1920年、それぞれホラズム、ブハラの両人民ソビエト共和国となった。

 1924年、トゥルケスタン自治ソビエト社会主義共和国とホラズム、ブハラの領土をあわせて、ウズベク・ソビエト社会主義共和国がつくられた。

 ウズベク共和国内のタジク自治共和国は、1929年タジク・ソビエト社会主義共和国として分離し、カラカルパク自治共和国(現カラカルパクスタン自治共和国)は36年ウズベク領となった。第2次世界大戦後、カザフ・ソビエト社会主義共和国とウズベクの間で数回にわたって領土の移転がなされている。91年8月、ウズベキスタンは独立を宣言し、同年のソ連崩壊後、独立国家共同体(CIS)の結成に加わった。

 独立後のウズベキスタン第1の権力者は、大統領イスラム・カリモフである。カリモフは、ソ連の解体直後に実施された選挙で86%の得票を得て大統領に選出された。カリモフの指示により、すべての反対派勢力が弾圧された。1992年に隣国のタジキスタンではじまった内戦の影響で、反対派に対する弾圧がさらに強化される。ウズベキスタン当局は、タジキスタンからの難民の流入を制限し、タジク人がウズベキスタン国内で政治結社などを組織することを禁じ、またサマルカンドのタジク大学を閉鎖した。95年、議会の要求で実施された国民投票によって、カリモフ大統領の任期を2000年まで延長することが決まった。97年1月、キルギスのビシュケクにウズベキスタン、カザフスタン、キルギスの大統領が集まり、経済と軍事関係を強化する条約に調印。同条約にはタジキスタンも98年1月に参加した。2000年1月、カリモフ大統領が再選された。
(  以上は「エンカルタ百科事典」より引用、一部加筆)


[略史]
15 世紀 中頃、チンギス・ハーンの末裔のアブー・アルハイル・ハーンがキプチャック草原に遊牧民族国家建設(ウズベク民族の始まり)
1507 年 ウズベク人、ティムール帝国を滅ぼし、ブハラを中心にブハラ・ハーン国を建設
16 世紀 初頭、ウズベク人の他の一派、ホラズムにヒバ・ハーン国を建設
18 世紀 初頭、ウズベク人の他の一派、フェルガナにホーカンド・ハーン国を建設
1867 年 ロシア帝国が進出し、ウズベキスタン地域を管轄し、トルキスタン省を設立
1868 年 ブハラ・ハーン国、ロシアの属国となる
1873 年 ヒバ・ハーン国、ロシアの属国となる
1876 年 ホーカンド・ハーン国、ロシアの直轄地となる
1917 年 ロシア革命の勃発により、タシケントにソビエト政府が成立し、フェルガナ州ではイスラム勢力による政府がコーカンド自治体が成立する
1918 年 タシケント・ソヴィエト政府がコーカンド自治体を倒し、トルキスタン自治共和国を樹立1920 年ヒバ・ハーン国においてホラズム人民ソビエト共和国成立。ブハラ・ハーン国においてブハラ人民ソビエト共和国成立
1923 年 ホラズム人民ソビエト共和国、社会主義共和国となる。
1924 年 ブハラ人民ソビエト共和国、社会主義共和国となる。スターリンの中央アジア民族間国境設定により、3 ハーン国の領土にトルクメニスタン・ソヴィエト社会主義共和国及びウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立し、ソ連邦の一部となる
1990 年 ウズベキスタン共和国の主権を宣言
1990 年 3 月最高会議の選出でカリモフ大統領が就任
1991 年 8 月ウズベキスタン共和国として共和国独立宣言
1991 年 12 月独立国家共同体(Commonwealth of Independent States 略称:CIS)協定に調印・参加
1991 年12 月 大統領の直接選挙が行われ、カリモフ大統領が再選される
1992 年12 月 新憲法採択
1994 年7 月 新通貨「スム」を導入
1994 年12 月 新議会オルイ・マジリスの選挙が行われ、人民民主党が圧勝する
1995 年3 月 大統領の任期延長を国民投票90%の賛成で承認
2000 年1 月 大統領選挙、カリモフ大統領が再選


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